2019年、金融庁の報告書が「夫婦の老後に約2000万円が不足する」と試算して社会を騒がせた。政治家が火消しに走り、報告書は事実上の”撤回”をされた。しかし数字が消えても、問題は消えなかった。
あれから7年。金利が動き、物価が上がり、新NISAが始まった。2026年の今、あの試算を正直に更新してみると——数字はむしろ悪化していた。そして「いつ始めれば間に合うか」を計算すると、意外な分岐点が浮かび上がってきた。
2019年の試算をおさらいする
元の計算はシンプルだ。
- 夫婦の年金収入:月約21万円
- 実際の生活費:月約26万円
- 毎月の赤字:5.5万円
- 30年分:5.5万円 × 12か月 × 30年 = 約1,980万円
この「約2,000万円」という数字が独り歩きした。ただしこの計算には、物価はほぼ上がらず、運用もしない、という前提が含まれていた。
2026年版:赤字は月7〜8万円に拡大している
2022年から続いた物価上昇で、生活費の前提が崩れた。エネルギー・食料品・日用品——あらゆるものが値上がりし、月26万円では暮らせない家庭が増えた。
本記事では物価上昇率を日銀目標の2%として長期試算する。2022〜2024年は3〜4%が続いたが、今後の長期前提としては2%が現実的な水準だ。物価2%上昇を織り込むと、月の赤字は7〜8万円に拡大する。
| 月の赤字想定 | 年間不足額 | 30年間の総不足額 |
|---|---|---|
| 月7万円 | 84万円 | 約2,520万円 |
| 月8万円 | 96万円 | 約2,880万円 |
「2000万円では足りない」時代に、すでに入っている。
新NISAは「答え」になれるか
2024年に始まった新NISAの基本をまず整理する。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生涯投資枠 | 1,800万円(元本ベース) |
| 年間最大投資額 | 360万円(つみたて120万+成長240万) |
| 満額まで | 360万円 × 5年 = 1,800万円 |
| 運用益への課税 | 非課税(通常は20.315%) |
非課税のメリットは、長期で見ると圧倒的だ。1,800万円を年5%で30年運用すると約7,794万円になる。通常の口座なら利益に約1,218万円の税金がかかるが、NISAならゼロ。それだけで1,200万円以上の差が生まれる。
なお本記事の試算は運用利回り年5%(名目)、物価上昇2%、実質利回り3%を前提とする。全世界株式インデックスファンドの長期平均に近く、金融庁が参考値として示す水準でもある。
定年前5年で満額積み立てると、いくらになるか
60歳定年として、55歳から毎年360万円を5年間積み立て、年5%で運用した場合の推移。
| 年 | 年末残高(5%複利) |
|---|---|
| 1年目(55歳) | 378万円 |
| 2年目(56歳) | 776万円 |
| 3年目(57歳) | 1,193万円 |
| 4年目(58歳) | 1,630万円 |
| 5年目(59歳) | 約2,090万円 |
元本1,800万円が、5年で約2,090万円に育つ。
4%ルールで「月いくら取り崩せるか」
ここで登場するのが「4%ルール」だ。米国のFIRE運動から広まったこの経験則は、「保有資産の4%を毎年取り崩しても、30年間資産は尽きない」というものだ(歴史的な株式市場のリターンに基づく)。
逆算すると、必要な資産額はこうなる。
- 月7万円(年84万円)の赤字を埋めるには:84万円 ÷ 4% = 2,100万円
- 月8万円(年96万円)の赤字を埋めるには:96万円 ÷ 4% = 2,400万円
55歳スタートで60歳時点の資産は2,090万円。4%取り崩しで月約7万円。月7万円の赤字はほぼカバーできるが、月8万円には1万円届かない。
「53歳」が分岐点だった
では月8万円の赤字を60歳時点でカバーするには、何歳から始めればいいのか。5年で1,800万円を満額積み立て、その後60歳まで運用を続けた場合の試算がこれだ。
| 積み立て開始年齢 | 60歳時点の資産 | 月取り崩し額(4%) | 月8万カバー |
|---|---|---|---|
| 55歳(5年前) | 2,090万円 | 7.0万円 | ✗ |
| 54歳(6年前) | 2,195万円 | 7.3万円 | ✗ |
| 53歳(7年前) | 2,419万円 | 8.1万円 | ○ |
| 52歳(8年前) | 2,540万円 | 8.5万円 | ◎ |
| 50歳(10年前) | 2,803万円 | 9.3万円 | ◎ |
53歳。これが「月8万円の赤字を60歳時点でカバーできる」最も遅い分岐点だ。定年の7年前。50代の入り口で、まだ住宅ローンを払っている人も多い年齢だ。
「65歳まで働けばいい」の落とし穴
「55歳スタートでも65歳まで働けばいいじゃないか」という声が聞こえてくる。確かに計算上はそうなる。
| 取り崩し開始年齢 | 資産額 | 月取り崩し額 | 月8万カバー |
|---|---|---|---|
| 60歳 | 2,090万円 | 7.0万円 | ✗ |
| 63歳 | 2,419万円 | 8.1万円 | ○ |
| 65歳 | 2,667万円 | 8.9万円 | ◎ |
55歳スタートでも、取り崩しを65歳まで待てれば月8.9万円を確保できる。しかしこの「65歳まで働く」という前提には、3つの落とし穴がある。
落とし穴①:嘱託の賃金は退職前の55〜65%
60歳定年後の嘱託雇用では、賃金が退職前の55〜65%程度になるケースが多い。月収40万円だった人が、翌月から24万円になることも珍しくない。NISAを取り崩さずに生活できるかは、この収入次第だ。
落とし穴②:年金の繰り下げは強力だが「待てる人」は限られる
年金受給を遅らせるほど月額は増える。70歳まで繰り下げれば42%増、75歳では84%増だ。しかし65〜70歳の数年間を年金なしで乗り切るには、別の蓄えが必要になる。繰り下げは有効な戦略だが、全員に使える手ではない。
落とし穴③:健康寿命は平均72〜73歳(男性)
65歳まで働く計画は、健康であることが前提だ。しかし男性の健康寿命は平均72〜73歳。60代での病気・ケガは決して珍しくない。「働けなくなった」瞬間に、精巧に組んだ計画が崩れる。
3つのシナリオで見る現実
| シナリオ | 状況 | 結果 |
|---|---|---|
| A(理想) | 53歳でNISA開始・健康に60歳退職 | 月8万円カバー ◎ |
| B(現実的) | 55歳でNISA開始・65歳まで嘱託継続 | 月8.9万円カバー ◎(雇用継続が条件) |
| C(リスク) | 55歳でNISA開始・62歳に病気で離職 | 3年分の生活費が別途必要・NISA取り崩しが前倒しに ✗ |
Cシナリオが示すのは、「働けなくなった瞬間に複数の問題が同時に起きる」という現実だ。収入が途絶え、NISAの取り崩しが前倒しになり、年金の繰り下げもできなくなる。リスクはひとつひとつではなく、重なって降りかかる。
住宅ローンとの「二重の締め付け」
さらに見落とせないのが、住宅ローンとの関係だ。30歳で35年ローンを組めば、完済は65歳。50代はまだ返済の只中にいる。そこに変動金利の上昇が重なれば、返済額が増え、NISAに回せるお金はさらに減る。
「53歳から始めるべき」とわかっていても、毎月の余裕がなければ始められない。住宅ローンと老後資金の積み立ては、互いに足を引っ張り合う構造を持っている。
数字より「タイミング」が全てを決める
老後2000万円問題は、2026年に「2500〜2900万円問題」になっていた。そしてその答えとして新NISAは確かに有効だ。非課税で育てた資産を4%ルールで取り崩す——この仕組みさえ作れれば、月8万円の赤字は埋められる。
ただし条件がある。53歳までに始めること。それだけだ。
2000万円という数字に怯える必要はない。ただ「始めていない」ことには、怯えていい。不安を数字に変えて、動ける人だけが7年後に「間に合った」と言える。
あなたは今、何歳ですか。
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