あの夜、震度7が2度来た——熊本地震10年が問いかける「備え」の現在地

2016年4月16日、午前1時25分。

熊本県益城町を、震度7の揺れが再び襲った。

前震からわずか28時間後のことだった。「もう大きいのは来ないだろう」と自宅に戻った人が、崩れた家の下に閉じ込められた。観測史上初めて、同じ地域に震度7が2度記録された夜だった。

あれから10年。明日4月16日、被災地では慰霊の祈りが捧げられる。節目のこの日に、熊本地震が残した教訓と、私たちの「備え」の現在地を見つめ直したい。

目次

前震と本震——「まさか、もう一度来るとは」

地震は2段階で起きた。

4月14日21時26分、マグニチュード6.5の前震が熊本県を襲い、益城町で震度7を記録した。死者9人、多くの建物が損壊した。

専門家の一部は「これが本震だ」と分析した。住民の多くは「最悪の夜は過ぎた」と感じていた。

しかし4月16日午前1時25分、マグニチュード7.3の本震が来た。前震より大きかった。益城町では再び震度7。前震で傷んでいた建物が次々と崩れた。最初の半月で余震は約3,000回に及んだ。

「死者の8割」が示す、衝撃の事実

熊本地震の犠牲者は278人にのぼる。

だが、その内訳に目を向けると、この地震の本質が見えてくる。

地震の揺れによる直接死はわずか50人。残る225人以上、全体の約8割が「災害関連死」だった。

災害関連死とは、地震そのものではなく、避難生活や心身の疲弊によって亡くなることをいう。熊本地震では以下の原因が際立った。

  • 地震のショック・余震への恐怖(全体の約40%)
  • 避難所での生活の肉体的・精神的負担(約29%)
  • 車中泊によるエコノミークラス症候群

頻発する余震が怖くて屋内に入れず、駐車場や公園の車の中で眠り続けた人が多かった。狭い空間で長時間動かずにいることで血栓が生まれ、命を奪った。

「地震で死なないこと」と「地震の後に死なないこと」は、別の問題だ。熊本はそれを数字で突きつけた。

10年の復興——戻ったもの、まだ戻らないもの

あれから10年で、熊本は多くを取り戻した。

  • 土砂崩れで寸断された国道57号が2020年に開通
  • 崩落した阿蘇大橋に代わる新阿蘇大橋が2021年に開通
  • JR豊肥線は2020年、南阿蘇鉄道は2023年に全線復旧
  • 熊本のシンボル熊本城の天守閣が2021年に復旧

最大で約4万8千人が入居していた仮設住宅は、2026年3月時点でわずか2世帯4人が残るのみとなった。

それでも、城全体の完全復旧は2052年度の見込みだ。深く刻まれた傷は、数十年単位でゆっくりとしか癒えない。

能登が問い直したこと

10年後、別の被災地が同じ問いに直面した。

2024年1月の能登半島地震では、2024年11月時点で災害関連死が235人に達し、熊本地震の関連死者数を上回った。

孤立した集落、高齢化した被災者、追いつかないインフラ復旧——熊本で学んだはずの教訓が、十分には活かされなかった部分もある。災害は繰り返し、同じ問いを投げかけてくる。「次に備えているか」と。

備えは「一時的」では意味がない

熊本日日新聞のアンケートが、ある現実を映し出している。

地震の記憶や教訓が「風化している」と感じる人は57%。そして、地震後に防災への備えが変化したかという問いに、最も多かった答えは「一時的に手厚くなったが、元に戻った」(40%)だった。

人間は忘れる生き物だ。それは責められることではない。

ただ、地震は忘れてくれない。

熊本地震が起きる前、益城町のほぼ全域が活断層のリスクが低い地域とされていた。想定外は、いつも想定外としてやって来る。

今日、できること

記念日に合わせて「防災グッズを揃えよう」と思っても、三日もすれば日常に流されてしまう。だから、今日だけでいいので、一つだけ確認してほしいことがある。

「家族と、もしもの時の話をしているか。」

スマートフォンが使えなくなった夜、電話が繋がらない朝、あなたと大切な人はどこで会うのか。避難場所はどこか。離れて暮らす親は大丈夫か。そういう話を、家族としたことがあるか。

防災グッズより先に、その会話がある。地震の話をすることが、そのまま備えになる。

熊本地震から10年。被災地の人々が10年かけて紡いできた言葉は、遠い他人事ではない。

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